この世界は、コンフォートゾーンを拡げたもの勝ちの世界っぽい。
以前、「光の本質は真理で、闇の本質は煩悩だよ」という話を僕の気功仲間が話していました。
真理というのは、この世の法則です。
絶対的なものではなく、お互いに相矛盾した真理が存在します。
数学は1つの真理ですが、この世というものを人生ゲームに例えると、数学だけわかれば完璧に攻略できるわけではなく、数学と相矛盾した真理やその他の真理も受け入れている必要があります。
僕は読んだことなくて、なんとなくの世界観しか知らないですが、マンガの『カイジ』の世界も、数学だけで乗り切れなさそうに思います。
でも、数学的な思考ができれば、直面する問題の難易度を下げたり、解決策を見つけやすくなったり、気づいていなかった問題に気づけたりします。
一方で、闇というのはディズニーランドのような夢みたいな感じです。
ある種の虚構です。
虚構でも、エンターテインメントであったり、何らかの役割があったり、光を受け入れるのに、闇も必要であったりします。
なので、否定されるべきものでもないのですが、闇にこだわると光が見えなくなったりします。
話が変わりますが、僕はこの私たちがいる世界をもっと楽しい世界だと思っていました。
もっというと、真っ当に生きていれば報われるような、最後にはいい人が笑える優しい世界であると思っていました。
しかし、冒頭の気功仲間から「この世界は弱肉強食であり、金融資本主義教を広めている人たちもこの世の法則に則っているだけだよ」ということを聞き、わりと絶望的な気分になりました(笑)
まぁ、戦争であってもビジネスであっても、裏でなにしようが、勝てば官軍みたいな感じだよなぁ、と思いました。
そんな光・闇の話を聞いた後に、苫米地博士のコーチング本を読んでいて、ふと思ったのが ブログタイトルにある「この世界は、コンフォートゾーンを拡げたもの勝ちの世界っぽい」ということでした。
人類の歴史を見ても、物理的には領土を拡げたり、人々の思考空間に国や王様が特定の宗教を入れることで、覇権を拡げ、そうした者たちが勝者でした。
ある人にとってのコンフォートゾーンは、別の人にとっては排他的なものであったりします。
人類の歴史の中で、バスの中の席や使うトイレを白人と黒人で分けることで、コンフォートゾーンを維持するということが行われたことがありました。
ということは、人間にとって差別はこの世界の真理であるのかもしれません。
現在は、別の形の差別が生まれています。
ポリティカル・コレクトネス(PC)という考えがあります。
ポリティカルコレクトネスとは?【意味をわかりやすく】 - カオナビ人事用語集
差別を無くそう、この考えそのものが差別を生み出している側面があります。
排他的な空間そのものが差別だからです。
PCコンフォーゾーンが別のコンフォートゾーンを排除しているからです。
差別すればするほど、差別空間の中枢に近づけば近づくほど、この世で権力や金を得られるのかもしれません。
だからといって、巨大に広がった金融資本主義教に対抗することは巨大なコンフォートゾーンの中に、自分で別のコンフォートゾーン、排他的な空間を作ることになります。
だからこそ、対抗するのではなく、現状のコンフォートゾーンとは全く別の抽象度の高い空間に、現状の外のゴールを設定し、新しいコンフォートゾーンを作る必要があるのかもしれません。
つまり、人類が進化するには「コンフォートゾーンを拡げたもの勝ちの世界」を超越したゴールが必要なのかもしれません。