人生の原動力 ~マジで胸熱哲学編~

前回は、中学生時代に塾の国語の授業で、二項対立という思考法に出会い、そこから近代哲学の父 デカルトに行きついたという話でした。

 

今回は、人生の原動力となった哲学の世界の触りを紹介していきます。

 

 

デカルトが二項対立(二元論)という現代人がもつ思考法のきっかけになりました。

 

f:id:Makkenji:20210626134248j:plain Wikipediaより引用(パブリック・ドメイン画像)

 

デカルトの有名な言葉に『我思う、故に我あり』という言葉があります。

 

これは、あらゆるものは疑おうと思えば、疑がえるけれども、この疑うという思考をしている自分の存在は疑えない、といった意味の言葉にあります。

 

デカルトは、この疑いようのない自分の存在を真理として、そこから物事を考えていこうとしました。

 

そして、疑いようのない自分の存在(意識)を出発点にし、精神と身体は同一ではないという心身二元論を提唱します。

(精神⇔身体) 

 

ここから現代人の思考法である二項対立(二元論)が始まりました。

 

 

 

科学や医学が発達する基になった二項対立ですが、この思考法には問題点がありました。

 

その一つが、この思考法が対立した二項のどちらか一項に優位を置いてしまいがちであるという点です。

 

その考えから生まれた差別的な見方を批判した人物が、デカルトの後の時代に出てきます。

 

 

 

デカルトは西暦1600年代の人ですが、時代は下り1900年代になると文化人類学レヴィ=ストロースという人が登場します。

 

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UNESCO/Michel Ravassard - Transferred from en.wikipedia, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8496339による
 

2009年まで生きていたので、わりと最近の人です。

 

この人は、「構造主義」という哲学の思考の枠組み(パラダイム)を作りました。

 

主義というのは、見方・考え方という意味があります。

 

構造主義というのは、ざっくり言うと「物事の構造に着目した考え方」という意味合いになります。

 

 

 

この方以前は、「文明」化が進んでいる西洋諸国を優れたものとして優位に置き、「未開」とされた部族・民族の文化は劣ったものとみなされていました。(文明⇔未開)

 

レヴィ=ストロースはこの見方を驕っているとして批判しました。

 

西洋の物差しで物事を見るのではなく、「構造」に着目せよ、と主張しました。

 

例えば、「文明」化している西洋だったり現代の日本では、大人になった証として成人式だったり、就職だったり、親元を離れるだったり、国や地域で様々だとしても、大人になる通過儀礼があります。

 

一方で、「未開」とされる民族や部族でも、一人前の大人になった証拠として、足にヒモを括り付けて高いところから飛び降りるといったような、それぞれの民族・部族独自の大人への通過儀礼があります。

 

こうした「構造」に着目すると、「文明」国であろうと「未開」とされた民族・部族の文化であろうと同じような「構造」があり、文化の方向性が違うだけで、優劣はないということがわかります。

 

このようにレヴィ=ストロースはこれまでとは違う新たな見方を打ち出しました。

 

 

 

 

この構造主義の次のパラダイム(思考の枠組み)としてポスト構造主義という考え方が生まれます。

 

ポストというのは、「~の次」といった意味を持ちます。

 

ポスト安倍、ポスト小泉とか政治で使われたりしますね。

 

ポスト構造主義は、構造主義の次の見方・考え方となります。

 

 

ポスト構造主義の代表的な哲学者にデリダ(1930~2004)がいます。

 

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Chinmoy Guha - Personally sent, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34596656による 

デリダは写真右の人物 

 

デリダは、レヴィ=ストロース構造主義が二項対立という考え方を前提にしている点を批判していました。

 

 

彼は、自身の考えとして「脱構築」というのを提唱します。

 

脱構築というのは、今までの哲学の体系を一回ぶっ壊して、再構築、解釈しなおそうという考えのことです。

 

今までの哲学の体系に二項対立があります。

 

二項対立は、対立する二項の内、どちらかを優位に置き、もう一方を劣位に置くという思想になりやすい欠点がありました。

 

例えば、選挙権など政治に参加する権利は、欧米でも日本でも、女性は男性より遅れて権利を獲得したり、男女雇用機会均等法の前身となる法律が戦後しばらくたった1972年と遅れて施行されたり、最近でもオリンピック関連で女性蔑視の発言をする政治家がいたりしました。

 

これは、様々な原因が考えられますが、二項対立の考え方の延長で、男を優位に置き、女を劣位に置いた見方になっているからこのような状況が生じているとも考えられます。

 

 

 

男女の考えを脱構築してみます。

 

男を優位とし、女を劣位とした見方を逆転して、再解釈します。

 

そもそも、男は女から生まれます、つまり女がいなければ男は生まれません。

 

その点で、女が優位で男を劣位と置くことができます。

 

さらに思考を進めていくと、女だけでも女は生まれず、男と女は両方いなければ、男も女も生まれません。

 

そういう意味で、男・女どちらかに優位を持たせるというのは意味を持たないことになります。

(ちなみにジェンダーの話題でいうと、二項対立の考えからは男の中に女的な要素を認めず、女の中に男的な要素を認めない考えになりやすく、LGBTなどの存在を排除した見方になりやすいという問題もあります。)

 

こうした思考法で、二項のどちらかに優位を持たせるという考えを解体することができます。

 

このように脱構築は、これまでの見方を見直すという意味で大きな注目を集め、評価をされました。

 

 

 

しかし、西洋哲学の枠組みでは、デリダ以降も二項対立という考えを抜け出せきれておらず、それに代わる新たなパラダイム(思考の枠組み)を見つけられずにいます。

 

それゆえに、二項対立の考えの延長で引き起こされている自然環境や人権、文化、テクノロジーなどの分野での問題が、評論文のテーマとして扱われます。

 

評論文と哲学が深いかかわりがあることから、塾ではその考えを学んでいました。

 

西洋哲学では、現在は新たなパラダイムへと移行する過渡期となっており、そのパラダイムが見つかるのを待っています。

 

 

 

僕にとって哲学は、RPGゲームみたいな感じで、次から次と自分が持っていた価値観、世界観を揺さぶる新たなステージが現われ、そこを冒険している感じでした。

 

マジで胸熱でした!

 

そして、学んだことを振り返ってみて思ったのは、哲学は人類が差別的な見方を克服しようともがいてきた歴史のように感じました。

 

人類が抽象度を上げていった歴史が哲学にも詰まっています。

 

ちなみに、僕は大学の哲学科の出身でもないので、内容がざっくりとしたものになっていたり、もしかしたら間違っているところがあるかもしれません。

 

もし、間違っている部分があったら教えてください。

 

よろしくお願いします。

 

 

 

最後に、1動画5分で、一つの哲学の考えをコンパクトに比較的わかりやすくまとめているチャンネルがあったので紹介します。

 

再生回数はそんなに多くないのですが、50万再生くらい再生されてもいいくらい良質な動画だと思いました。

 

哲学、ひいては人類が差別的な見方を克服しようともがいてきた歴史を学んでみたい方はどうぞ!

 

哲学チャンネル - YouTube

 

今回触れた哲学のトピックが含まれる動画

・我思う、故に我あり(デカルト

https://youtu.be/wWizmDgHLBA

 

構造主義、野生の思考(レヴィ=ストロース

https://youtu.be/0oGXZdaou6o

 

構造主義インセストタブー(レヴィ=ストロース

https://youtu.be/UV-NHeHnjLw

 

ポスト構造主義脱構築ジャック・デリダ

https://youtu.be/JBHGWd61i90