「できる」って可能世界をみせる存在
間違っていることもあるだろうし、残す必要もないけど、頭の中整理したくて書いているので、この記事はそのうち消します。
ここ1,2か月くらいけっこうイライラすること多かったんすよね。
最終的に自分のせいなんだけど、いろんな物事に対して、頭のどこかでイライラしてるみたいな。
なんか自分が変化している感じがしないイライラみたいな。
で、一個思い出したことがあって。
4年以上前だと思うんだけど、当時僕が入っていたコミュニティにある女性がいて、僕がそのコミュニティ内でやったミニ気功セミナーか食事会かなんかに参加したことがあって。
そのときに、一緒にいた人たちに気功も使った整体として肩のこりをとるってことをしたことがあって。
その女性が「まつけん、すごいね!」って感じでえらく感動してたことがありました。
で、気功に興味をもった感じだったので、天才的な先輩気功師が何人かいるので、そのうちの1人を紹介したということがありました。
けっこう楽しそうに気功を学んでいて、将来的には気功を使ったフェイシャルマッサージで開業しようかなみたいな話もしていました。
詳細は忘れたけど、その当時、シングルマザーでその人には子どもが2人いて、付き合っていた男性がいるみたいな状態で、男性とは別れた方がいいかなみたいな話を僕にしていました。
僕は僕で、女性という生き物が全然わからないので、その人に女性についていろいろ聞いていました。
そういう中で、「まつけん、気功できるんだからひとめぼれの技術で彼女できるじゃん。」とかその女性に言われたんだけど、僕は情報空間的な話を男女関係に落とし込む感じがよくわからなくて、なんて答えればいいかわからなくて、適当に相槌をうってました。
その後も何度か話す機会とか会う機会があったんだけど、そのうちその女性が気功の世界から離れていって、スピリチュアル系のなんとか協会みたいなところで、資格を取って、それで開業しました。
今でもSNSの投稿で100いいねくらい取ってるし、集客も上手くいっているみたいです。
僕は精神的な成長って大事なことだと思っていたので、なんで現実と浮世離れしたそっちの世界に行っちゃったんだろうと当時思っていました。
それは、彼女の決断だし、僕が何か言うことでもその人に対して何か未練みたいのは無いんだけど。
ずっと最近僕がどこかでイライラしているのは、そのことも少し関係していると最近思いました。
恐らく当時、その女性に、今までの人生の延長線上にない気功の世界を結果として僕は見せることになったのだと思います。
でも、推測も混じりますが、恐らくシングルマザーとして子どもを養っていくことに不安を感じていたその女性に、僕は余裕であなたは子どもを養うこともできるし、まだまだ先に抽象度の高い世界もありますよって世界を身を持ってみせることができる存在でなかったことに対して僕の中で引っかかりを感じていたように思います。
僕がそういう存在だったとしても、彼女の決断として、浮世離れした世界に行くのは変わりないこともありえるし、最終的にはその人の決断なんだけど、僕自身がそういう存在でないというのが引っかかりだったように思います。
ここ1、2か月の間に、経済的なことは当然、その先の抽象度の高い世界にリアルに現実に身をもって動かしている存在を目の当たりにする機会がありました。
そっからどこか焦りやイライラを感じる機会が増えました。
あえて言葉にするなら、自分自身が「できる」って可能世界を身をもってみせる存在でない焦りであり、イライラでした。
でも、ずっとイライラが何なのかよくわかっていなかったのですが、それを自覚したときに未来から現在過去に流れる時間観を思い出して、将来そうなっているならいろいろ全部変わっていってるじゃんと思って、少し楽になりました。
振り返ってみれば、身をもって度は人それぞれだと思いますが、今までの延長からは知る由もない「できる」って可能世界をみせる存在はたくさんいると思いました。
世界は物理世界だけでなく、情報的な世界が広がっていて、人は変わることができるし、世界から戦争と差別を無くすことも可能という世界をみせてくれている存在。
辛いと思っていた過去を止観やヒーリングを通じて癒すことが可能だと教えてくれている存在。
グラウンディングや浄化、ルー・タイスの風景の生の感覚を伝えてくれて、応援してくれている存在。
わけのわからなかった情報空間の手触りを言語でも伝えてくれて、さらに先の情報空間の広がりをみせてくれている存在。
子どものように目を輝かせて生きていくことができるということを教えてくれている存在。
この世には地の世界があり、密教という修行的な側面や情報空間の違った見方を教えてくれている存在。
ある本に知識とは「潜在的に他者と共有しうる物事の関係性のこと」、と書いてありました。
現代分析哲学で言えば、「知識とは、可能世界から可能世界への到達可能性関数」、とも書いてありました。
決定論的に今こうだから、次に世界はこうなるみたいな感じではなく、未来の可能世界は無数にあり、その中から選択して、今という状態になります。
アカデミックな理解はざっくりしているので、間違っている可能性もありますが、感覚的にはそういう感じなのかなと思っています。
今回は、身をもって度高めに今まで見えてなかった「できる」って可能世界をみせる存在に出会って、自分の中にイライラが出てきたのかなとおもいました。
未来の可能世界で自分にあったスタイルで、「できる」って可能世界をみせることができればいいんじゃないかと、自分の中で一旦の落としどころが見つかって、それを文章にまとめました。
その上で、世の中の「できる」って可能世界をみせている存在は参考になると思いました。
You tuberのヒカルとかもそうだし、僕にはそこまで刺さっていないけど、キングコングの西野亮廣もそんな感じするし、以前記事で紹介したイノベーターの濱口さんもそんな感じします。
存在は知ってたけど、今年に入って「おおっ」と感じたのはトム・クルーズでした。
知れば知るほど、「マジかよ、そんなことできるの!?」って世界を身をもってみせていると思いました。
映画『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』トム・クルーズ衝撃メッセージ映像 - YouTube
映画の予告の前にメッセージ映像があるのですが、映画の予告が全然頭に入ってきませんでした(笑)
宣伝で身体張るんだと思いましたが、逆に宣伝だから身体張るのかもしれませんが、これがトム・クルーズスタイルなんだと思いました。
話変わるのですが、今、『トップガン』・『トップガン マーヴェリック』の連続上映をやっていて、1作目をスクリーンで観たかったので、今度観に行きます。
てな感じで、トム・クルーズ洗脳に引っかかっているのですが、「できる」って可能世界をみせるのも洗脳っちゃ、洗脳なのかもしれません(笑)
この世界は『カイジ』の世界なのか?
これ、見た人います?
【リアルカイジ】全国のクズを集めて1000万円を賭けた下剋上オーディションを開催したら騙し合い裏切り何でもありだった… - YouTube
賞金1000万かけて、クズたちがカイジさながらの底辺バトルをするってやつです。
1回目見た時は、5分くらい見て、雰囲気に耐えられなくて見るのやめて、でも面白いと評判だと聞くので、昨日見たんですけど、めちゃくちゃチャクラ閉じまくりました(笑)
まぁ、面白かったけど(笑)
で、いろいろ考えたわけです。
そもそも世の中には見るべきでないコンテンツがあるのか?
参加者の不幸感が良くないのか?
僕の情報処理の問題なのか?
とかいろいろ問題を模索してみました。
で、ヒカルとか相馬トランジスタとかこういう世界観平気っぽいなぁとか思ったときに、ビジネス、恋愛などにも共通した何かがあると気づきました。
以前、気功仲間に『ナニワ金融道』か『闇金ウシジマくん』かなんかのマンガを勧められたことがあって。
そんときはいつか読むよくらいの感じでその言葉を受け取っていたんだけど、この生々しい感覚は、サバイバルとか弱肉強食の世界での生き残りに必要な感覚っぽいぞ!とふと思いました。
今、検証中なので、なんともいえないのですが、底辺の深いところに『ナニワ金融道』とか『闇金ウシジマくん』みたいな世界観での生き残りの感覚があって、その上のもう少し浅いところにビジネスや恋愛での生き残りの感覚があるような感じがしました。
ビジネスも恋愛も恋愛市場とか言い方することもあるし、弱肉強食的な側面だったり、人間的な生々しさも垣間見えるところもあったりします。
1つ前の投稿で、ふぉいの前で僕は無力な感じがすると言ったけど、その感覚の有無というのが関係してたかもしれないです。
そして、情報を物理に落とす、情報を現実化、物理化するというのが個人的な検証テーマの1つになっていて。
この情報と物理の間が、なんかつながっていない感じがしてたんだけど、その1つはこれかもしれないです。
あと、なんか僕はなんか挑戦するとか実践するとか、異常にビビりで金玉縮みあがっちゃうんすよね。
それもこういう生き残りの世界観に慣れているか、の問題があるかもしれないです。
この世界を『カイジ』的な世界観として見ることもできるのかも。
解釈は解釈として、現象は現象として
最近自覚するようになった違和感を言語化してみます。
自分が言ったことだったり伝えたいことのコアだったりが、上手く伝わってなかったり、一部だけ切り取られている感じがあったり、別の解釈をされてしまったり、みたいなことを感じることがちょこちょこありました。
そもそも、人はそれぞれ認識に上がらないこともあったり、100%分かり合えるということはないですし、僕の伝え方の問題もあると思いますし、そういうものなのかもしれません。
そして、逆に他の人が伝えようとしていることのコアを、僕が一部だけ切り取ったり、解釈を入れてしまったり、認識できてなかったりしてきたと思います。
そこで、いくつか気をつけた方がいいことがあるかもと思いました。
1つは、しょうがないことだけど、そもそも他人も自分も認識に上がってないものがあったり、見たいように世界を見てしまっているというのを改めて認識する必要があるということ。
もう1つは、解釈は解釈として、現象は現象としてそのまま受け取るということ。
何か実践したとか、情報空間上の発見をしたとか、何か現象を経験したとして、それを他の人にいくらでも説明できたり、人から説明されても、それは解釈にすぎないから現象は現象としてそのまま受け取るということ。
これは出来るのかわかりませんが、どこまでいっても解釈でしかないというのは認識しておく必要はあると思いました。
現象の前では、どんな言葉も無力な感じが最近します。
無力じゃないけど、無力といえば無力。
解釈することで、その情報から何かを再現できたり、応用できたり、便宜上便利だし、それはそれで大事だけど、解釈は解釈。
こんなこと偉そうに書いてもいいのかと思いつつ、頭の中の違和感を言葉にしてみました。
世界的イノベーター濱口秀司に聞く、「日本が世界に勝つために必要な力」とは? - YouTube
数か月前に「ビビッ」ときた動画ですが、これに関して、今なら知っている理論に当てはめて6個以上は記事にできるような感じがありますが、この人の掴んだコアを同じように掴めてないのであれば、その言葉は無意味だと思いました。
【ふぉい】恋愛でモテる男について残酷すぎる正論を視聴者にぶつけしまうふぉい【DJふぉい切り抜き Repezen Foxx レペゼン地球】 - YouTube
東大生のセ●レがいた時の話【レペゼン DJふぉい切り抜き】#repezenfoxx - YouTube
最近、ちょこちょこ見ているふぉいの話です。
勝ち負けとかはないし、そういう感じでもないんだけど、ふぉいの前では僕は無力な感じがします。
抽象度上げることは意味があるんだけど、それだけじゃない何かがある感じがします。
ふぉいの言っていること、みた世界が絶対的真実ではないけど、無数にある真実のある種の真実が含まれていると思いました。
もはや抽象度という言葉を使うのも解釈な感じがします。
現象は現象として認識して、そのコアにあるものをわかったときにお互いに分かり合うみたいなものが生まれるのかもしれません。
ある配信で「女との話って国語だよね」っていう視聴者のコメントに対し、「間違いないわ、向こうの気持ちを答えなさいしかないからな、ずっと。」ってふぉいが答えてていました。
これに限らず、コアを掴んだ同士でわかりあえる何かがあるのかもしれません。
気になるってことは、そこにパズルのピースがあるのかも。
先日、高校の文化祭に行ってきました。
今年開催する文化祭一覧が載っているホームページがあって、ほとんど事前予約とか、受験生・保護者限定とかで、一般公開してるところが少なかったのですが、10校に1校あるかないかくらいの割合で、一般の人も入れるところはありました。
行った目的は、「青春感」という感情を流すということでした。
お好み焼き串を食べたり、校内をぐるぐる廻ったり、美術部の絵とか写真部の写真みたり、チアリーダーやブラスバンドの公演をみたり、けっこう満喫しました。
それなりに目的は達成したのかなとは思いました。
それよりも実際に行ってみて、わかったことがありました。
女子高生空間のわりと抽象度高めの空間があって、そこに僕が現役高校生の時に取得すべきだったエネルギーがあったのがわかりました。
以前、ブログで紹介した闇と言えば闇なのかもしれないですが、何かあるって感じでした。
そこの女子高生からもらうのは申し訳ないので、女子高生空間全体から必要な分だけ流すことにして、すると欠乏してたのがけっこう満たされる感じがありました。
青春に心残りがあったのも、それが関係していたのかもしれません。
話変わりますが、正直当日は文化祭行くか迷いがありました。
風邪でもないし、熱が出てるわけでも、病気の症状でもないのですが、無性に身体がだるくて、あんまり動けなかったです。
それは、新しい情報場に移動するときの感覚で、ホメオスタシスが働いているということでもありました。
風邪ひいたときに、元の健康な状態に戻ろうと身体が熱を出すといったことがありますが、風邪じゃなくても新しい情報場に移動するとき、何か情報的な変化するときにそういっただるさがでることがあります。
そんな感じで、行くのがマジで面倒だったのですが、行かないと後悔する感じがしたので、行くことにしました。
行ったら行ったで元気になって、いろいろ見てまわって、必要な情報も見つけることができました。
なんか気になるってことは、そこにパズルのピースみたいに必要な情報があるのかもしれないです。
とにかく現場に行かないとわからないことはあると思いました。
とはいえ文化祭から帰ってきたら、もう身体が動けなくて、布団にずっと横になっていました。
気になる趣味、気になるイベント、気になる本などがあるときは、無意識がそこに何か自分に必要な情報の一部を見つけてるということかもしれません。
そんな話でした。
ドリームキラーは現状という名の現象
自分ではブログの内容として、ドリームキラーといったワードに触れることはないだろうなと思っていたのですが、降って来たので今回触れることにしました。
コーチングにおいてドリームキラーは、現在までの過去に基いてあなたに意見やアドバイスする存在とされています。
その意見やアドバイスに従ってしまっては、現状の延長線上の未来にしかたどり着けないから、誰の言葉を聞くのかや自分の言葉をコントロールするのは大事なことだといわれています。
自分が望む現状の外の未来に焦点を合わせることが、もっとも大切なことです。
そのような説明が、コーチングにおいてなされます。
今まで、僕はドリームキラーというのを個々の人として認識していました。
両親であったり、友達、先生などです。
だから、そういう存在を排除しようと僕は思って、けっこう感情的になっていました。
しかし、それは正確な認識ではなかったかもしれないと最近思うようになりました。
ドリームキラーは、現状という名の現象であり、具体的なものとして人を通じて表れているにすぎないのだと実感するようになりました。
ゴール側のゲシュタルトが観えた人にとって、ゴール側とは別のものとして現状というゲシュタルトが浮き彫りになってきます。
ゴール側のゲシュタルトに臨場感がある人からすれば、未来のゲシュタルトを認識できてない現状のゲシュタルトの引力としてドリームキラーが表れていると認識しています。
そう考えると、ドリームキラーであったり、未来側のゲシュタルトであったりという概念が僕の中ではけっこう腑に落ちました。
当時、未来側のゲシュタルトが観えていたのかはわかりませんが、僕自身は大学で就活が始まる前に、苫米地博士の本に出会い、普通に就職するという道筋に強烈な拒否反応がでてきました。
友達付き合いや親との会話も消極的になり、ドリームキラーの存在との会話を排除しようと思っていました。
今考えると長髪で見た目が怪しくて、普通の科学者にみえない人の本を200冊以上も買って、毎日読んでいる息子を見たら、洗脳されたり変な宗教に入ったんじゃないかと思い止めようとするのは当たり前だよなとは思います。
止めようとする親や変な目で見てくる友達というのをドリームキラーとしての存在と見ていました。
なので、その後2年間くらいは両親とは会わず、友達とも5年くらいは会っていませんでした。
でも、今では両親とも普通にご飯を一緒に食べることもあるし、友達とも会って、いつのまにかそのお父さんとも友達になっていました。
そういうのを冷静に振り返ると、人を排除する当時の僕は誤っていたなと思いました。
当時の僕は、単純にやりたいことや未来も漠然としていたし、エフィカシーや自信といったものが低かったから、現状という現象に向き合えていなかったのだと思います。
当時気功というものを学ぶとは思っていませんでしたが、気功を通じて情報空間を認識し、手で触るなど身体性をもって、情報空間を動かすという感覚が少しずつみえてきた今振り返るとそう思います。
あと、すでにゴール側の臨場感をリアルに感じ、僕よりも物事を現実化する感覚を掴めている人の世界をみていて、ドリームキラーを含め、現状という名の現象が具体的な形として現れているにすぎないと最近思うようになりました。
【名言】DJ社長が教えてくれた『夢』を見る事の大切さ 【心に響く】【勇気が出る】【レペゼンフォックス】【DJ社長切り抜き】 - YouTube
今、僕が感じた手触りを文章にしましたが、僕が答えでもないし、DJ社長が答えでもないし、苫米地博士が答えでもないし、結局自分で情報空間の手触りを感じ、自分でつかんでいくしかないのかなと思っています。
なんでハイパフォーマンスを発揮する人は、それができるのだろう?
現状の外って何なのだろう?
ドリームキラーって何なのだろう?
ヒーリングマインドって何なのだろう?
そういったことを自分で思考して、先人たちが発見し掴んだ概念を自分で掴んだり、新しい概念を作り出していくのが未来を作る上で大事なのかもしれません。
感情も流した方がいいっぽい!
前回のブログの冒頭で、気功仲間の話をしましたが、その仲間が話していた話が参考になったので、今回も取り上げます。
「感情は詰まらせず、流れを良くしておくこと。
それがコントロールの秘訣です。」
ということをその仲間から聞きました。
怒りとかは、怒りが溜まるって言い方をするときもあるから、溜まる感じはしますが、楽しいが溜まるとかって言い方をしないので、感情が溜まるっていうのは僕にとっては新鮮な見方でした。
しかし、実際に感情は溜まって、詰まりを起こします。
考えてみれば、感情も情報であり、気であり、「気の流れを良くする」ということの中に、感情も入るのは自然なことです。
溜まる感情に対する仲間が言っていた対処策は、泣ける映画や漫画などのエンタメを見て、泣くことを楽しもうということでした。
僕もやってみたら、けっこうスッキリしました。
泣けるといわれている名作の映画を見たのですが、自然に泣けるとまでは行けず、あえて感情を強めて、泣きにいったのですが、けっこう詰まりが取れてスッキリしました。
映画を見て、終盤の辺りで気づいたのですが、うれしい、楽しい、悲しいといった各感情に関して、どうも個々の感情が湧くごとに流した方がいい感じはしました。
これに関して、自然に泣けるエンタメであれば、もしかしたら個別に流す必要がなく、一気に全部の感情が流れるのかもしれません。
まだ、流せてない感情があるっぽいので、これに関しては、自然に泣けるエンタメを見つけて、全部流れるか検証しようと思います。
流した感情に関しては、その感情に対して手綱を握っているイメージを持つことができます。
無理に抑える必要はないけど、状況に合わせてコントロールすることができるようになります。
あと、何にもない状態で、無理に気功で感情の詰まりを流そうとしても流れず、ある程度自然に感情が湧く臨場感を感じている状態でないと流せないというのも面白い発見でした。
感情は感情という抽象度で合わせるから、上手く流すことができるということなのかもしれません。
また、感情を流す話の派生での仮説ですが、感情という枠をもう少し広げると、過去に満足に堪能できなかったことや心残りなことは、疑似的にでも堪能し、流す必要があるかもしれません。
これを感情という括りに入れるのか、わかりませんが、僕にとっては「青春感」というのが胸元あたりに詰まっているのがわかりました。
青春というのは、いろんな定義があるのかもしれませんが、僕にとっては↓の中に「青春感」を感じます。
小平南高校 文化祭 新宝島/狂乱 Hey kids!! - YouTube
街中を歩いていると、体感7割以上の人が、この「青春感」を纏っています。
大人になった人も、かつてそれぞれ青春を楽しんだからその臨場感が残っているのかもしれません。
この臨場感を以前自分で纏ってみたものの、なんかまだ心残りがある感じがすると思っていたのですが、この「青春感」が身体の中で詰まりを起こしているというのがわかりました。
高校の文化祭シーズンがそろそろ始まるので、もし学外の人が入れるところがあったら、堪能して、流してみようかなと思います。
人それぞれ、「過去に満足に堪能できなかったことや心残りなこと」があれば、もしかしたらそれは感情の詰まりかもしれません。
感情や気の通りを良くして、感情に対して上手に対処していきましょう(^▽^)/
この世界は、コンフォートゾーンを拡げたもの勝ちの世界っぽい。
以前、「光の本質は真理で、闇の本質は煩悩だよ」という話を僕の気功仲間が話していました。
真理というのは、この世の法則です。
絶対的なものではなく、お互いに相矛盾した真理が存在します。
数学は1つの真理ですが、この世というものを人生ゲームに例えると、数学だけわかれば完璧に攻略できるわけではなく、数学と相矛盾した真理やその他の真理も受け入れている必要があります。
僕は読んだことなくて、なんとなくの世界観しか知らないですが、マンガの『カイジ』の世界も、数学だけで乗り切れなさそうに思います。
でも、数学的な思考ができれば、直面する問題の難易度を下げたり、解決策を見つけやすくなったり、気づいていなかった問題に気づけたりします。
一方で、闇というのはディズニーランドのような夢みたいな感じです。
ある種の虚構です。
虚構でも、エンターテインメントであったり、何らかの役割があったり、光を受け入れるのに、闇も必要であったりします。
なので、否定されるべきものでもないのですが、闇にこだわると光が見えなくなったりします。
話が変わりますが、僕はこの私たちがいる世界をもっと楽しい世界だと思っていました。
もっというと、真っ当に生きていれば報われるような、最後にはいい人が笑える優しい世界であると思っていました。
しかし、冒頭の気功仲間から「この世界は弱肉強食であり、金融資本主義教を広めている人たちもこの世の法則に則っているだけだよ」ということを聞き、わりと絶望的な気分になりました(笑)
まぁ、戦争であってもビジネスであっても、裏でなにしようが、勝てば官軍みたいな感じだよなぁ、と思いました。
そんな光・闇の話を聞いた後に、苫米地博士のコーチング本を読んでいて、ふと思ったのが ブログタイトルにある「この世界は、コンフォートゾーンを拡げたもの勝ちの世界っぽい」ということでした。
人類の歴史を見ても、物理的には領土を拡げたり、人々の思考空間に国や王様が特定の宗教を入れることで、覇権を拡げ、そうした者たちが勝者でした。
ある人にとってのコンフォートゾーンは、別の人にとっては排他的なものであったりします。
人類の歴史の中で、バスの中の席や使うトイレを白人と黒人で分けることで、コンフォートゾーンを維持するということが行われたことがありました。
ということは、人間にとって差別はこの世界の真理であるのかもしれません。
現在は、別の形の差別が生まれています。
ポリティカル・コレクトネス(PC)という考えがあります。
ポリティカルコレクトネスとは?【意味をわかりやすく】 - カオナビ人事用語集
差別を無くそう、この考えそのものが差別を生み出している側面があります。
排他的な空間そのものが差別だからです。
PCコンフォーゾーンが別のコンフォートゾーンを排除しているからです。
差別すればするほど、差別空間の中枢に近づけば近づくほど、この世で権力や金を得られるのかもしれません。
だからといって、巨大に広がった金融資本主義教に対抗することは巨大なコンフォートゾーンの中に、自分で別のコンフォートゾーン、排他的な空間を作ることになります。
だからこそ、対抗するのではなく、現状のコンフォートゾーンとは全く別の抽象度の高い空間に、現状の外のゴールを設定し、新しいコンフォートゾーンを作る必要があるのかもしれません。
つまり、人類が進化するには「コンフォートゾーンを拡げたもの勝ちの世界」を超越したゴールが必要なのかもしれません。