自由って辛いの?
ここのところの投稿記事は、もしかしたら読む人によっては読みたくない、辛いと感じるところもあるかもしれません。
自分が宇宙のスケールから見たら、宇宙のちりに過ぎず、存在してもしなくても誤差の範囲内とかって、人によっては何か不快に感じるかもしれません。
僕の話していることは、認知科学の理論やそこで学んだ技術や知識がベースになっています。
科学は、自分が信じているものとか感情とかそういうの無視して、事実を私たちに突きつけてきます。
例えば、花火大会です。
夏に友達とか恋人と見に行ったときに、一方の人が「きれいだね!」と言っているのに対して、「あれは金属の炎色反応に過ぎないよ」と返したら、時が止まりますよね。
単純に嫌な奴ですね(笑)
楽しんでいるのに対して、突然事実を突きつけてくる感じです。
これは科学が、主観的な見方を排して、客観的な法則だったり原理を発見する活動であって、法則や原理をえぐり出すナイフのような鋭さがあるということです。
感情的に嫌な感じを持つ人もいるかもしれませんが、自由を目指すのであれば、科学的な見方は慣れておきたい視点の1つです。
なんでかというと、感情や自分の信念を脇に置いておくことで見えてくる物事があるからです。
自分の直感に反する物事を理解するのに、科学は使えたりするからです。
例えば、重力です。
物は、重さに関係なく落下速度は等しいです。
直感でいえば、重いものの方が速く落ちそうな感じします。
でも、事実としては空気抵抗などの影響を除けば、重いものも軽いものも同じ速度で落下します。
人間の認識は、過去の記憶にないものは認識に上がらないというのも科学的な見方です。
感覚的には、自分はちゃんと目も見えるし、物事をハッキリ認識している感じはします。
でも、実際は過去の記憶にないものの方が情報的に多くて、それだけ物事を認識できてなかったりします。
あるいは、人は重要なものしか見れないので、コンセントの穴が左右で違うというのも気づかなかったりします。
まさかそんなところに盲点がある感じがしない、そういうところに気づくことができるのが、科学的な見方です。
事実は、好きとか嫌いとか関係ないので、人によっては嫌なことを突きつけられた感じがするということです。
自分が今認識できていないところに、自分にとっての自由につながる情報があったりします。
それを知るのに、科学的な見方も使えるということです。
嫌な事実も受けいれる必要がある時もあります。
嫌だよね、僕も嫌です(^▽^;)
自由とのつながりで科学的な見方が有効という話でしたが、別に科学的な見方だけが大事なわけではないです。
自分が認識できてない情報を認識できることが自由を追い求める上で大事です。
なので、カメラの視点のようにいろいろな角度で物事を見れるように視点を自由にすることが大切になってきます。
職業という枠組みでいえば、科学者なら科学者の視点があって、小説家なら小説家の視点があって、見てる世界があるわけです。
科学的な視点以外でも別の視点が人によっては不快な時もあります。
しかし、そこにもしかしたら自分にとって大切な情報があるかもしれません。
そういうのも見れるように視点を自由にする、いろんな視点に慣れていくというのは辛い時もあり、楽しい時もあるものです。
例えば、毎年9月1日は残念ながら1年の中で子どもの自殺が多いです。
いじめだったり、学校生活、勉強など何か悩みがあって、その中でどうにもできずに自ら命を絶っていきます。
でも、社会人になったり、大人になるとわかりますが、子どもの時の悩みなんて小さなことに見えたりします。
それは、学生やこどもという視点以外の視点を成長するにつれ、獲得できるからです。
少ない視点の見方しかないときは、どうにもできずに絶望して、人生を終わらせるということがあるかもしれません。
でも、視点が豊富であれば、転校しようとか、ゲームの世界に逃げようとか格闘技を学んで強くなろうとか何か別の方法が見えてきます。
何か別の方法が見えれば、辛かったものが楽しいものに変わったりします。
ブログタイトルにある「自由って辛いの?」に対する僕の答えですが、辛くもあり楽しくもあり、どっちでもないのかもなぁと今は思っています。
受け入れたくないこともあるはあるので、嫌な感じがするときもありますが、それはそれで何か対処法がありますし、一方で自分の知らない視点は新鮮で面白かったりもします。
面白いも嫌という感情もわりと瞬間的なものなので、どっちでもないといえばどっちでもない感じもします。
でも、自由を追求すると僕は元気になります。
なので、一言でいうと僕にとって自由は元気の源です。
みなさんにとって自由は何でしょうか?
視点を増やしていって、その答えを見つけてみてください。